雪子が禁域に住み始めてから、三年の時が経った。その間に政治家の偉い人が変わり、法律の改正によりアヤカシの労働時間も軒並み増えていたが、それはアヤカシたちにとってさしたる問題ではなかった。
生活はつらくなり、世間からの風当たりも強くなったというのに、なぜアヤカシたちはそれを問題にしなかったのか。理由はいくつかある。まず、元々アヤカシは人よりも数段体力があり、人間が音を上げるであろう苦境に耐えうる力もあるということ。また、アヤカシそのものの存在が最初からヒエラルキーの底辺に位置していることを理解していたということ。だが、何よりもアヤカシたちの生活を支えたのは、他ならぬ雪子の存在だった。
世界の暗いところを何も知らぬ人間の少女。彼女が微笑むだけで、強面の鬼が破顔し、彼女が初めて立った時など、アヤカシ全員で集まって酒宴を開くほどにアヤカシたちは雪子のことを愛でていた。
「くろす」
一年と半年くらい経過した頃、初めて雪子が言葉を喋った。それを聞いたのはクロス本人だったのだが、それがあまりにも嬉しかったらしく何度も何度も自分の名前を言わせて、強制労働の時間に遅れたというのも良い思い出である。
人もアヤカシも寝静まる晩に帰ってきたクロスが初めにやったことと言えば、雪子に自分のことをパパと呼ぶようにすることだった。案の定、雪子はぐっすり眠っていたのだが、それこそ催眠でもかけるように耳元で囁くクロス。異変に気付いたサキュバスに跳び蹴りを食らうまで気づかなかったという。
その噂は一晩のうちに禁域内に伝わり、アヤカシ全員が怒るというよりは、「クロスだけパパ扱いはずるい」だとか、「じゃあ、私はママになる」とか言うことで大いにもめたので、結局父母の呼称は誰のものにもせずに、それぞれ名前もしくはあだ名で呼んでもらうことにした。
喋り始めた雪子の成長は早かった。初めは二言、三言の短文だけであったというのに、三歳になった頃には自分の意見や好き嫌いまではっきりと言い表すことが出来たのである。普通の人間にも個体差はあるが、雪子は稀に見る賢い子だった。
時が経つにつれ、雪子はアヤカシたちにとって欠かせないものとなっていた。鬼や吸血鬼など人に近い外見をしたものだけでなく、よくわからない軟体生物や獣の姿をしたアヤカシたちですらも、自分とはまったく異なる種族であることを知りながら、雪子はそれを個性だと思い、よく懐いていたのである。
それは自分と同じ人間という種族が他に存在していることを知らないからなのか、それとも単純に雪子が人や物を偏り見ない性格の持ち主なのかはわからない。それでも、彼らは幸せだった。雪子はアヤカシたちにとって、なくてはならない存在になっていた。
狭い彼のアパートでは浴場は二つしかなかった。しかも、二つある浴場も片方はシャワーしか付いておらず、湯船に浸かれるのは一階にある風呂場しかない。今までは生活時間の違いからか競合することは少なかったのだが、雪子が来てからというもののアヤカシたちが風呂に入る回数が増えたこともあって、浴室は順番待ちをするほど混んでいた。雪子に嫌われたくない一心から、風呂嫌いで有名であった鵺がシャワーを浴びるようになったのも記憶に新しい。その甲斐もあってか、猿の頭、トラの胴体、蛇のしっぽを持つ彼に対しても、雪子は犬とでも接するように楽しそうに戯れていた。
話は多少変わってしまうが、入浴の話である。その日はクロスが雪子を風呂に入れる当番であった。クロスは細かいところを面倒くさがる傾向があるので、わざわざ濡れないような衣装に着替えたりすることはなく、自身も全裸になり一緒に風呂に浸かるようにしている。
「今日も疲れたねー。雪子、さっきゅんは怖くなかった?」
「さっきゅんはいつもゆきのことなでなでしてくれるから、すきだよ」
屈託のない笑顔を見せてくれる雪子に自然と笑みがこぼれてくる。今日は早番だったが、その仕事は苛烈と一言で言い表せるほど酷いものだった。しかし、積もるはずの疲れもこの子の笑顔を見ればすぐに吹き飛んでしまう。
「そりゃ、よかったねー。それじゃ、今日も体きれきれしよっか」
「うん!」
まだ三歳の雪子だったが、自分の服は自分で着替えることが出来る。雪子はワーウルフの手作りの制作者本人からはとても想像できないくらい可愛らしいフリルのついた服を紅葉ほどの小さい手で脱いでいく。
その様子をクロスは穏やかに眺めていた。難しいボタン外しも難なくこなしていく雪子の成長ぶりに対する喜びと、近頃は雪子のためもあってご無沙汰の作業を思い出す。クロスが声をかける女はどれも酒臭いか香水臭く、クロスの無駄に良い嗅覚をこれでもかと刺激する。しかし、雪子からするのは甘いミルクの匂いと微かな汗の匂いだけ。同じ人間でもここまで違うのだとクロスは驚いていた。
「くろすー。じょうずにぬぎぬぎできたよ」
子供用の小さなスカートを脱ぎ終え、下着一枚となった雪子が言う。嗅いだ事のないかぐわしい匂いに酔っていたクロスは少し遅れてそれに気づき、慌てて自分のマントを脱ぎ始めた。マントを取り外し、上着に手をかけた頃、雪子の膝に小さな絆創膏があることに気付く。
「雪子、膝小僧どうしたの?」
「ん、あそんでてころんじゃった」
本当に小さな傷。けれども、そこから出た血液が絆創膏のガーゼの部分を赤黒く染めていた。若い、いや幼すぎる女の子の血。見惚れそうになったところを何とか唾を飲み込むことで抑える。
「そ、そっか。痛かったよね。泣かなかった?」
泣き虫な雪子だから、きっと泣いてしまったであろう雪子にあえて、そう聞いてみると、意外にも雪子は小さな胸を張って答える。
「なかなかった。ゆきはつよいこだから」
えっへんとでも言うような雪子の態度に、クロスは満足そうに彼女の髪を撫でてやる。生まれた頃から一度も切っていない雪子の髪が揺れて、ふっと首元から汗の香りがした。ほんの小さな女の子、されどもその色香に精神を犯され、クロスの本能がゆっくりと鎌首をもたげ始めていた。
これではいけない。クロスは自分の中の抑えきれないものに気付き、とっさに頭を振る。血と汗の匂い。ここまで育てて来た彼女に自分が取り返しのつかないことをやってしまわないだろうか。不安が募り、サキュバスにでもお風呂役を代わってもらおうかと真剣に考えたが、サキュバスは今日に限って仕事なのだった。
「くろす、どうかしたの?」
「ううん、何でもないよ。時間も遅いし、早く入っちゃおう」
こくんと頷く雪子を尻目に、ベッドに入る時よりも真剣に服を脱ぎ始めるクロス。マントに隠されていた細い四肢が露わになり、パンツに隠されていたモノも解放された。クロスが裸になったことを見て、雪子も慌てて下着に手をかける。白いシャツに白いショーツ、その二つが汚されてはいけないものの象徴のようにクロスの目に映った。
雪子が生まれたままの姿になって、クロスは改めて自分の精神状態が危ういことに気付く。白く、壊れそうなほど小さな胸。けれどもしっかりと女の子の身体。頭の中で鳴りやまない警鐘が何に対してなっているのかもわからずに、それ以上雪子の身体を見ないようにして、小さなかごに収まったシャンプーとボディーソープの容器を片手に浴室の段差をまたいだ。
「うあ、まっしろ」
換気扇を回していなかったこともあって、浴室は真っ白な湯気で満たされていた。香る、入浴剤の匂いにわずかに雪子の匂いから気が紛れる。
すぐに入って出てしまおう。それが一番の得策であり、唯一出来る安全策でもあった。湯気でほんのりと温められたタイルを歩き、熱すぎないか確かめてから風呂桶にお湯を満たす。まずは雪子に、続いて自分の汚れた部分をそそいだ。適度な湯加減と全身を洗われる気持ちよさに、雪子が歓声を上げる。
「くろすがかえってこなくて、さみしかったよう」
「はは、ごめんね。最近、あんまり一緒にいてあげられなくて」
急に思い出したかのように、雪子がクロスの太ももにしがみついた。お湯でぬれた肌と肌が触れ合う感触。雪子の背はとても小さく、どう頑張ってもクロスの腰までしか届かない。ちょうど顔の位置に自身の息子があったこともあり、クロスは雪子のすべすべした身体を両手で抱え上げて優しく湯船に降ろした。その瞬間にお風呂が大好きな雪子はあえぎ声にも似た無意識の吐息を洩らす。
「熱かった?」
「ううん、きもちいいよ」
少しでも緊張が緩むとおかしくなりそうなので、適当に言葉をかけたクロスだったが、その一言で墓穴を掘ってしまったと思った。と、同時に下半身に違和感を覚える。完全な無意識からの反応。しかし、それは愛娘に対して起こってはならない反応だった。
「くろす……?」
湯船のふちに手をやり不思議そうに見つめる雪子。湿った黒髪が艶やかに光り、クロスは股間に手をやった。三年前のあの時はいくら頑張ってもダメだった息子が、雪子に対して異常な関心を示している。そう言えば、職場で体格の良い派遣社員がパソコンの画面に映った小さな女の子に対して、興奮していた。周りは彼のことをロリコンロリコンと言っていたが、もしかすると……。
「ロリコン……なのか?」
だから、あの時もその前もそのずっと前も僕は不能だったのか? 完全にとまではいかないが、半分くらいは来てしまっている自分の息子を抑えつけながら考える。考えてどうなることではないと分かっていても、疑問符が消えない。
「ろりこんってなに?」
「え、えっと……そういう名前の特撮ロボットアニメが最近始まったらしくて」
無茶な言い訳だと思ったが、他に適当な言い訳も思いつかなかった。アニメどころかテレビも知らない雪子はそれを聞いてもちんぷんかんぷんと言った様子で、そんなことはいいから早くお風呂に入ろうとクロスの手を掴む。
「うおっ」
指の隙間から、雪子の指先が局部に当たった。情けない声を出して、尻もちをつくクロス。反射的に腕が開かれ、股間の紳士が今までにないほどに自己主張していた。