自分が何者なのか。クロスはそんな答えの出ない意義について考えることが多かった。自分は吸血鬼の末裔であり、人外であること。性別で言えば男の身体をしており、禁域にあるアパートの管理人をしているなどその他、肩書きと呼べるか微妙なものも合わせて色々と思い悩んでいたはずである。
長い時間。それも数日や数か月といった人間の時間からは考えられないほどの長い時間考えても彼自身は納得していなかった。自分は何のために生まれ、何をなすべきなのだろうか。目の前で同胞を根絶やしにされ、種の保存……否、労働力の確保のために種族一落ちこぼれだった自分だけが生かされたというのに、自分は何一つなさずにのうのうと生きている。
自分をこれほどまでに惨めな状態に追い込んだ人間への復讐を考えたこともあった。むしろアヤカシの大多数は自らの命を賭して、人間に立ち向かい命を落とすことで誇りを守ったのだ。けれども、かく言う自分は死の恐怖に負け、どのような屈辱を受けても生を選んだ。
これは許されることなのだろうか。自問自答を繰り返し、その度に深く思考の渦に浸る。それが数十年続き、苦悩と日常を行き来するだけの日々に明け暮れていた。その最中、薄錆びたアパートに天使が訪れたのだ。
その天使の名前を雪子という。それはアヤカシが付けた名前。生にも死にも程遠い、それでありながら種族を増やすことのできない劣等種の中に舞い降りた奇跡。その存在は確かな質量と個性を持って、彼の存在を全面的に肯定した。
紛れもない危機であった。それは仮とは言え父親の威厳を保つ上で最重要なこと。実の娘に欲情し、グロテスクに肥大化した息子を見せつけるようにして尻餅をついているなど、最早変態を通り越してすぐに人間の自衛及び治安機関に収容、極刑に遭わんという状況である。
「くろす、どしたの?」
湯船の中から覗き込む彼女の瞳に自分のナニが映らないように、クロスは咄嗟に風呂桶へ手を伸ばした。しかし、痛む腰とはち切れんばかりに膨張した息子が邪魔をして、上手く風呂桶が掴めない。
「な、なんでもないよっ」
クロスは腰をねじりながら返答するも、雪子はクロスの慌てぶりに不安を感じてしまう。雪子の中のクロスはいつも落ち着いていて、彼女がいるときはいつも笑顔を絶やさない絶対的な優しさの象徴であった。それが自分に対して何かを隠している。言葉や文字にすることはできなくても、彼女は動物的な本能でそれを察知した。
「くろす、なんかへん!」
彼女はそう口にすると、危なっかしい手つきで風呂の縁を掴み、湯船から這い出る。程よい湯加減で桜色に紅潮した肌がゆっくりと浴室のタイルを踏みしめ、もう一方の足を湯船から出そうとした直後に事件は起きた。
「あっ」
雪子がクロスに向き直ろうとした瞬間、濡れた床が滑り彼女はバランスを崩してしまう。傾いた体勢が向いた先はクロスの真ん前。ちょうど尻餅をつき、彼自身の局部が剥き出しになったそこである。雪子はクロスが教育上、一刻も早く隠そうとした部分に向けて、前のめりに倒れ込む。そして、不幸なことにクロスはその事実に気付いていなかった。
「……ぐおあっ!?」
情けない悲鳴が上がった。雪子の頭がクロスの息子を直撃し、挙句の果て彼の金的に全体重を乗せた右手が直撃していた。悶絶するような痛みと、ほんのわずかな快楽。下半身から脳に痛みを知らせる信号が届くまでの一瞬に彼は覚悟した。彼女に罪悪感を与えないための最善策。彼は奥歯がすり減るほどに強靭に創られた顎を噛みしめ、下腹部に力を込める。
コンマ一秒にも満たない闘争。文字通り血が滲むほどの我慢の末に、彼は絶頂と絶叫の二つを堪えた。自らの力で負傷した歯茎が軋み、鮮血が口端を伝う。視界が暗転し、全身隅々まで痙攣してなお、彼の愛娘への愛が自身の男としての本能に勝ったというのは世辞抜きに讃えられるだろう。
彼が地獄の数秒間を見事耐え忍んだ後、ようやく回復の兆しを見せた身体が最初に気付いたのは雪子が泣いていることだった。
「くろす、どうしたの? ねぇ、くろすっ……」
自分は何秒間意識を飛ばしていたのだろう。それがほんの十数秒ほどのことだとしても、それは彼女を心配させるには十分なはずなのに。
「大丈夫だよ」と声をかけようとしたが、鈍く残る痛みが身体を苛み、うまく言葉を紡げなかった。だから、彼は痛む身体を無視し、彼女の小さな頬に手をやる。そして首から彼女を抱き寄せ、額に優しくキスをした。噛み潰した口内から出た血が彼の唇の形を作り、そのまま雪子の白い肌に残る。
「くろす、ごめんね……」
彼女の口から一度も教えたことのない言葉が飛び出し、思わず面食らった。多分、アヤカシたちの誰かが教えたのだろう。心からの謝罪。真珠のような涙が小さな瞳から溢れんばかりにこぼれ出し、彼の肩に落ちた。灼けるように熱い感覚が皮膚を通して伝い、本能的に彼はそれを拭って口に運んだ。
「雪子」
ほんの一滴にも満たない水分が彼の身体を生き返らせていく。乾いた砂に落ちた水分が瞬時に吸収されるように、凄まじい速度で彼女の体液がクロスの全身を巡っていた。彼は知らなかったのだ。涙とは血液から赤血球や血小板、白血球を除いた物だということを。
しかし、結果的に彼の身体は驚異的な回復力を見せた。彼にとってはそれが血液に近しい物だったからというよりは、純粋に彼女の気持ちが嬉しかったからというのが大きいかもしれない。
「くろす、もうだいじょぶなの?」
「うん。大丈夫だから泣かないで。雪子にはいつも笑ってて欲しいから」
言葉の意味を図りかね、きょとんとした顔をする雪子。けれど、すぐに彼女は両目を手の甲で拭い、可憐な笑顔を見せた。
「そう。雪子には笑顔が一番似合う」
彼はもう一度、雪子を抱きしめ、優しく髪を撫でた。
風呂上がり。クロスはパジャマ姿になった雪子を肩車して、アパートの階段を上っていた。先のダメージは初めから無かったように消え失せ、むしろ前よりも元気そうに見える。
あの後、彼と彼女はいつも通りに身体を洗い、雪子がもっぱら話し役、クロスが効き役に回って、仲の良い家族の典型のような入浴を済ませ、何の問題も無く浴室を後にした。今となってはさっきの感情の奔流は何だったのだと思いたくなるような平穏であった。
老朽化し、ギシギシと音を立てる階段に合わせるように雪子の足がゆらゆらと揺れる。その拍子に脱衣室で言っていた怪我をした部分がクロスの目に入った。いつの間にか絆創膏が剥がれ、小さな傷痕が覗いていた。
「雪、絆創膏どうしたの?」
「とれちゃったみたい」
雪子自身、今気づいたようで、特に気にしている様子はなかった。お湯でふやけたかさぶたからわずかに血液の香りがするが、クロスは動揺しない。ほんの一滴にも満たない処女の涙。それだけで彼はこの上ないほどに満たされていた。
「後でまた貼らないとね。剥がしちゃだめだよ」
この一件で崩れかけた関係を暗示するように彼は言う。それは間違いを犯しかけた自分への戒めでもあった。
「うん」
雪子は素直に返事し、全身でクロスの頭にしがみつく。その温かさが嬉しくて、くすぐったくて彼も思わず微笑んでいた。他愛もない話をしながら、自分の部屋のドアノブをひねる。ドアは相変わらず半壊したままだったが、アヤカシたちにはもとより鍵をかける習慣も無いので、特に気にしてはいなかった……のだが、ドアの隙間から見えた見慣れたアヤカシの存在にすっと嫌な予感が冷や汗となって背を伝う。
「え」
間抜けな声を出したのはクロス。部屋を間違えたのかと思って部屋番を確認するも、そこは間違いなく自分の部屋だ。ではなぜ自分の部屋のベッドに朔乃が腰かけており、自分の姿を見るなり険しい顔つきで自分に向かって来ているのだろう。
「な、なんで」
「なんでじゃないわよ!」
朔乃にいきなり胸倉を掴まれ、睨みつけられたクロスは訳も分からず揺さぶられ、危うく雪子を落としそうになる。そのことに気付いた朔乃は無言で手を止め、雪子をこちらに渡せと身ぶりだけでクロスに伝えた。
クロスは渋々雪子を優しく降ろし、朔乃に預ける。一体、朔乃は何に対して腹を立てているのか。全く心当たりが無いだけに不安だけが募った。
「クロス。あんた、うちの雪ちゃんに変なことしてないでしょうね!?」
「し、してない!」
とは言ったものの、限界ぎりぎりまでいっていたのは自覚していたので、わずかではあるが後ろめたさもあった。それを朔乃は即座に見破ったのか、変わらぬ語調でクロスを追い詰める。
「なんか変な声が聞こえたから、私、雪ちゃんの様子を見に行ったのよ。そしたらあんた、ち……」
変なところで言葉が止まる。だが、その一文字でクロスには察しがついた。サキュバスがこんなにも怒り心頭な理由と合わせても答えは一つしかない。しかも、その一部始終を見られていたというのだから言い逃れも出来ない。
「あれは不可抗りょ……へでぶっ!」
顔面に突き刺さる拳。その一撃でクロスは玄関まで吹き飛ばされ、背中を強打した。それを気にする様子も無くつかつかと歩み寄り、暴言と暴力を持ってクロスを制裁するサキュバス。
「こんのペド吸血鬼! 心臓にTENGA刺されて死ねっ!」
何もそこまで言わなくても。そう思いながらも、彼は彼女の納得がいくまで無抵抗に罵倒され、暴力を振るわれ続けた。それが雪子への贖罪になるのならそれでもいいと思った。
「さっきゅん! やめてっ」
鋭い踵落としが脳天に決まる直前に雪子の大声が朔乃の背中に浴びせられ、落ちかかっていた踵が音も無く止まった。朔乃は怒りにまかせ雪子の前で暴力を振るってしまったことに罪悪感を感じ、一言だけ雪子に謝ってから、クロスには一目もくれずに隣の部屋に引っ込んだ。
「さっきゅん、なんであんなにおこってたの? くろす、なにかしたの?」
「それともわたしのせい?」そう続けようとした雪子の口をクロスは人差し指で押さえ、口元だけで笑う。
「ただの夫婦喧嘩だよ。喧嘩するのは仲の良い証なの」
「そうなんだ。ならいい」
天使の微笑み。もう心臓をオナホで貫かれて死んでもいいやと思った瞬間、どこで聞いていたのか怒りか照れかで顔を真っ赤にした朔乃が現れ、クロスは力づくで自分の部屋のすぐ隣にある処刑室へ連行された。