12.hinketsu

 あれから三年。三年という月日は短い。それは人間にとってもアヤカシにとっても同じである。薄暗い禁域に四季はなく、三年どころか一年という区切りすらも相当曖昧であった。アヤカシに至っては寿命という概念そのものが、人間とはかけ離れているのもその原因の一つであろう。そう、雪子が来るまでは。
 雪子が吸血鬼の家に来てから早九年。雪子は見違えるほどに美しく成長した。生まれた頃から伸ばしている髪は腰までの長さになったにもかかわらず、その色は漆のように艶めき、あどけなさの残る顔は美しさを武器にするアヤカシですらも嫉妬すると言われている。
 そして、何より特筆すべき点として、彼女は非常に頭が良かった。まず、雪子はその歳にして禁域に住む全てのアヤカシの言語を習得した。続いてそれに飽き足らず、外の世界のあらゆる言語で書かれた本を欲しがった。今や、彼女の所有物のほとんどが書籍になっている。その類稀なる才能はあくまで彼女だからこそであり、並の人間……いや、例え世界の名だたる言語学者を呼んできたとしても、彼女以上にはなりえないと断言できる。
 何が彼女をそうさせたのか、明確な答えはない。強いて言うなら、世界にただ一人の特別な生活環境、狭い世界でアヤカシとの共同生活を営むことによって、彼女はただ一つの存在になったのかもしれない。

*

「はぁ……」
 入浴の時以外、片時も手放すことのない本を片手に雪子はため息をつく。家の外に光はなく、天空に張り巡らされた結界に遮られ、星の光さえも届かない。漆黒の闇はまるで彼女の心を映しているようだった。
 今日も学校はお休みだ。あれから三年。生徒は増えることも無かったが減ることも無く、数少ない同世代の友達との勉強はとても楽しい物だった。それは勉強が特別好きというわけでは無くて、気の合う友人と大好きな教師と一緒にいられることが好きだった。
 その学校もここ一週間、まともに開けていない。原因はクロスの体調不良だ。いくら生徒が待ち望もうとも教師がいなければ、学校という制度は成り立たない。一時は他のアヤカシがクロスの代わりを担おうと奮闘したが、彼の代わりは務まらなかった。
 一週間前、ただでさえ色白の彼が顔を真っ青にして教卓に立ち、いつも通り出席を確認しようとしたところ、突如手に力がなくなったかのように出席簿を取り落とした。それを拾おうとした彼は小さく呻き、かがんだまま動かなくなった。生命力において、他に類を見ない能力を誇る吸血鬼にとってあり得ない事態。誰よりも彼と長い時間を過ごして来た雪子は考えるよりも早く彼に駆け寄り声をかけたが、返事はなく、死んだように固まっていた。
 今まで見たことも、体験したことも無い窮地に雪子は気が動転して、どうしていいかわからなくなった。自分が今まで読んできた本の中には医学書も含まれていたが、それは人間のためのものでアヤカシには意味をなさない。無力を呪った彼女に出来たことは、ただ彼が遠くに行かないように強く彼にしがみつき、涙を流しながら祈ることだけだった。
 その後、誰よりも早く教室を駆けだしたフランが禁域の最年長者を呼んで来て、クロスが倒れた原因が明らかになる。
「貧血じゃな」
 人間にして見れば大したことがないように思える症状。しかし、長老の語気は重い。彼は突然、なんら躊躇することなく自らの手首を噛みちぎり、どくどくと溢れ出す血液を無理矢理クロスの口に注ぎ込んだ。そのおぞましい光景に雪子を含む生徒たちは金縛りに遭い、瞬きすることさえできない。赤黒いそれが見る見るうちにクロスのシャツを濡らし、侵食していくのを呼吸することさえ忘れて、ただ見ていた。
「小童ども、離れておれ。出来るだけ遠くに」
 静かに、しかし有無を言わせぬ語気でそう告げる長老。次の瞬間には子供たちは姿を消していた。正確には雪子が聞きわけなく、その場を離れようとしなかったのだが、機転を利かせたフランが雪子を優しく気絶させ、両手で抱え上げて連れ出した。
 彼らが教室を後にして数十秒。背中に今までに感じたことのないような寒気を覚え、全身の皮膚が泡立つ。聞こえて来たのはこの世のものとは思えないほどの邪悪な気配。そして、それを何とか食い止めている力強い何かの存在。それはクロス先生と長老なのだろうと戦闘本能の強いキバとフランは理解していた。
 闇に塗りつぶされた路地を駆け抜けた四人は、いつか優しい先生と過ごしたあの部屋で肩を寄せ合い、眠れぬ夜を過ごす。何も知らないのは雪子だけ。初めから理解していたはずのこと。自分たちの存在が尋常なものではないというその事実。静かな寝息を立てる雪子。その安らかな表情を見て、フランは「よかった」とただ一言だけ呟いた。
 そして、話は今に戻る。事件の直後、気を失った雪子は事の真実を知ることなく、ベッドで寝たきりになったクロスのことを想う。友達だと思っていた彼らは、その日の夜について何も語ってはくれなかった。それは意地悪などではなく、心から自分のことを思って言ってくれているのだと感じた雪子もそれ以上は聞こうとしなかった。
 残ったのは喋ることも無く、昏々と眠り続ける父の姿だけ。時折起きて、仕事に行かなきゃだとか、自分の心配をしてくれるクロスだったけれど、その時間も日に日に減っているように雪子は感じていた。
「クロス……」
 死という概念は知っていた。生きとし生けるものはいつか死ぬ。それは自分だって例外じゃない。それでも、認めたくない。来るかもしれない”いつか”は今では無い。倒れ伏す父の姿を見て、そんな思いばかりが強くなっていく。
 くよくよしてばかりじゃ始まらない。雪子は強い意志を持って、手にしている本に望みを賭ける。幸いなことにクロスの種族に関する書籍は山のように持っていた。ほとんどはにわかに信じられない絵空ことばかりが書いてあったけれど、嘘の中にも必ず真実は隠されているはずだ。
 ページをめくり、膨大な知識を頭の中に詰め込んでいく。クロスが倒れてからというものの彼女はほとんどの時間を読書に費やしていた。削られたのは主に睡眠時間。以前のように優しいクロスが帰って来るまで、寝る暇も惜しい。ページをめくる指先は乾き、上手くページをめくることが出来ない自分に苛立ち、それでもなお本を読むことをやめなかった。そんなとき、印刷された文字が大きく歪み、溶けて滲む。
「雨……?」
 ここのところ、雪子は部屋から出ておらず、食事も主にサキュバスが運んでいた。雨など降るはずがない。なのに、どうしてページに染みが増えていくのだろう。
「雪ちゃん」
 声を掛けられて、初めてその存在に気付く。自分の傍らにサキュバスが立っていた。ドアを開けたことにも気付かなかった。
「さっきゅん。どうかしたの?」
 そう言ったつもりだったのだけれど、声はかすれて出なかった。テーブルの上に置かれたままの食事。もう、冷めきって乾いている。その状態からすべてを理解した朔乃は危うく手にした皿を取り落としそうになるほど動揺した。
「雪ちゃん、泣いてるよ」
 大きな瞳に涙を浮かべ、声を詰まらせる朔乃。目の下を擦り、雪子は初めて自分が泣いていることに気付いた。膨大な知識を詰め込み過ぎたから、代わりに涙が出て来たのかななどと自分自身に苦笑する。
「クロスが帰って来るまで泣かないつもりだったんだけど。私、弱いね」
 泣きながら笑おうとする雪子。壊れた人形のようになった雪子を見た朔乃は一も二も無く雪子を抱きしめた。ごめんね、ごめんねと涙を流す朔乃に戸惑いつつも、その好意に甘える。
「さっきゅん、お願いがあるの」
 耳元で囁く雪子。その声に耳を傾ける朔乃。一瞬の沈黙の後に、雪子は禁じられた言葉を紡いだ。
「私、クロスのこと……ううん、お父さんのこと大好きだから」
「うん」
「お父さんに血をあげたいの」

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