09.seito

 夜の繁華街。夜闇を原色のネオンが照らし、その周囲を男たちが一夜の夢を求め動きまわる。怪しい客引きに顔写真の下に書かれた源氏名。呆れるほどわかりやすい場所だ。男は女を、女は男を求め夜の街を彷徨い歩く。
禁域に住む淫魔、朔乃の勤務先もこの街にあった。しかし、それは華々しい夢の館ではなく、寂れたオフィスビルの三階である。時は草木も眠る丑三つ時。彼女は飢えた男たちではなくデスクに積まれた書類を眺め、大きなため息をつく。
「どんな精神してたら、こんなに仕事残して帰れるのよ……」
 契約書、発注書、報告書、中にはよくわからない書類もあったが、そのどれもがまだ誰も目を通していない物で、言うまでも無く必要な記入欄は真白である。これでも元の量の半分は彼女一人で終わらせたのだが、まだまだ終わりは見えてこない。
 ふと視線を逸らし、窓の外をふらつく酔った男を見る。この会社の専務が露出の多い服をきた女を両手にだらしなく鼻の下を伸ばしている。もう、呆れを通り越してため息しか出なかった。
 けれど、ため息ばかりついていても、自分の残業時間が増えるだけだ。朔乃は支給品の安っぽいボールペンと上司が放り投げていった判子を手に取り、目の前の書類と向き合う。
 こんな仕事はさっさと終わらせて、早く家に帰りたい。別段、用事があるわけではないが私がいない間にあの脳味噌下半身のペド吸血鬼が雪子に手を出さないとは限らない。私が、守ってあげないと。
 彼女以外誰もいないオフィスにペンが走る音だけがこだまする。結局、彼女が雑務から解放されたのは、残業代の出ない残業時間が八時間を過ぎた頃だった。

*

 こほんと軽く咳ばらいをしたのは教壇の前に立った吸血鬼。突如乱入してきた四人の生徒を前にして多少緊張しながらも、彼は教師という責任を全うするべく、最初の自己紹介を始める。
「僕はクロス・ブラッドハウンド。種族は吸血鬼で、君たちの先生だ。趣味は読書、好きなことは家でゆっくりすること。これからいろいろ教えることになると思うけど、よろしくね」
 よし、何とか噛まずに言えた。彼は胸中で小さくガッツポーズし、生徒達を見る。どの子も外見からして個性的で、一癖も二癖もありそうだ。
 彼は四つ正方形に並んだ机を前にし、左角から時計回りに自己紹介をするように指示する。一番左角に座るは人間の雪子。彼女も彼女で見慣れない子供たちの侵入に少し緊張しながらも、すっと椅子を引きゆっくりと立ち上がる。
「わたしの名前は雪子・ブラッドハウンド。種族は雪女。好きなことはみんなとお話しすることです。よろしくおねがいしますっ」
 最後にしっかりとお辞儀する雪子を見て、我が子ながら良く出来た娘だと内心感動するクロス。座るときに慌てて転びそうになったところも含め、雪子はいい生徒になりそうだと安心した。ちなみにクロスは雪子に彼女が人間であることを伝えていない。小さなウソではあるが、警備員など他の人間に聞かれてもわからないようにするための保険でもあった。
 次はその隣に座る黒髪の男の子だ。背は雪子よりも小さく、黒っぽい縞の和服を着ている。彼はアヤカシのほとんどを把握しているつもりでいるが、この少年は初見だった。
「ぼ、ぼくは蔵屋敷優太。種族は、えっと、座敷わらし。好きなことはかくれんぼ。よろしくおねがいします」
「優太くん、よろしくね」
 にこやかに微笑みかけると、彼はすぐに視線を逸らして、縮こまるように席に着いた。小さな手は握りしめられており、顔は赤い。かなりの恥ずかしがり屋のようだ。これから色々とフォローしてあげなければならないだろうが、真面目そうだし特に問題はないだろう。しかし、問題はここからだ。
 後ろで両腕を組んだ真黒い男の子。黒いのは服装ではなく、全身を覆った体毛のせいである。種族は言われずともわかる。月夜に狂う、凶暴な亜人。狼男だ。
「キバ。人狼。好物、肉。よろしく」
「キバくん、よろしくね」
 ふんっと鼻を鳴らし、黙って席に着くキバ。協調性は見るからになさそうだ。多分、狼女の息子だろう。人狼はアヤカシには珍しい有性生殖をおこなうから、ほぼ間違いない。
 さて、残るは頭にボルトが刺さった少女だけだ。最初に教室へ飛び込み勉強を教えてくれと言ってきた快活な少女。机の上に足を乗せてはいないが、椅子を傾かせてだらしなくふんぞり返っている。
 彼女は立ち上がることもせず、座ったまま言った。
「あたしはフラン。フランケンシュタインの女の子。好きなことは鶏をいじめること。嫌いなのはあたしのことをバカにするやつ。あとカッコつけてる男も嫌い」
 それはもしかして自分のことを言ってるのかクロスは思ったが、口にはせず微笑みで返す。それに対する少女の返答は髑髏の書かれた赤いパーカーの袖をいじるだけだった。
 クロスはこりゃまた大変そうなのが来たと苦笑し、新調したチョークを片手に生徒たちに背を向けた。
「それでは、自己紹介はこれくらいにして早速、授業を始めるよ。最初の授業だからみんなちゃんと聞いてよね……って、フラン!」
 教卓越しに見ると、早速フランが教室代わりの小屋の隅を駆けまわっていた。集中力という言葉を使っていいのか悩むほどに集中力が無いらしい。彼が注意しようと彼女に歩み寄ると、フランはこれでもかというくらいに嫌な顔をする。
「なんだよ。文句でもあるのかよ?」
「大有りだよ。授業はちゃんと座って聞いてもらわないと困る」
「飽きたし、つまんないから、やだ!」
 まさか授業を始める前につまらないと言われるとは、さすがのクロスも予想していなかった。どうやって言いくるめるか考えていると、今度は教室の後ろの方で悲鳴が上がった。
「ぎゃああああああ、やめてええええ」
 見ると狼男のキバが前の席の優太に襲いかかっていた。窓から差し込んだ月光を浴びたのか、全身の毛が逆立ち、その目は狂気に赤く輝いている。じゃれ合っているとかその程度では済まないだろう暴走っぷりに、クロスは全力でキバを止めることが先決だと考えた。とっさに取った手段は手刀。渾身の力で後頭部に向けて振り下ろす。
「ぐげっ」
 今にも優太を丸のみにしそうだったキバが白眼をむいて倒れる。それを確認すると、クロスは月明かりの差し込む窓のカーテンを閉めた。キバの逆立った毛がいくらか収まり、小さな寝息を立て始める。どうにか最悪の事態は喰いとめることが出来た。
 ほっと一息ついたのもつかの間、今度は背後で破砕音が聞こえて来た。音の方向は授業前から既に集中力の切れた少女からである。振り向くと、実に堂に入った構えでフランが教室の壁を蹴り壊していた。ローからの後ろ回し蹴り。流れるようなその繋ぎに見惚れるわけもなく、クロスは全力で床を蹴りフランに飛びかかる。
「やめなさい!」
 マントをなびかせ、高速の跳躍。しかし、それを見越していたかの様にフランは振り向きざまに強烈な裏拳を放った。クロスはそれを左腕で受けるも、予想以上の力に身体を浮かされ、回転の勢いを利用した右のハイキックをモロに食らった。その勢いでクロスは背中で机をなぎ倒し、無様に尻餅をつかされる
「へへっ、人造人間舐めんなよ。あたしは帰って鶏でもいじめてくるぜ」
 壁に開いた穴にツバを吐き、つぎはぎだらけの鞄を片手に教室の出口へと向かうフラン。彼女が教室のドアノブを握ろうと手を伸ばすと、そこに両手を広げた少女が立っていた。
「なんだよ。お前もボコられたいのか?」
「机に戻って」
 毅然とした眼差しで言ったのは雪子。意地でも通さないという確固とした意思がその両目に宿っている。直後、ドアの一部が砕けた。雪子の顔の数センチ隣を神速の右ストレートが通過していた。
「どけよ」
「いやだ」
 抑揚のない言葉に秘められた殺意。しかし、雪子も負けていない。どちらも譲らない、膠着状態。これが大人の世界なら、フランが折れたであろう。しかし、これは子供同士の話だ。時に子供は歴戦の兵士よりも残酷である。
 フランの拳が上がった。狙いは雪子の細い身体。壁を砕く膂力が華奢な少女に振るわれれば、おのずと答えは分かる。アバラは枯れ枝の如くへし折れ、内臓は水風船のように砕け散るだろう。クロスならば吸血鬼ならではの頑丈さと、その生命力でちょっと痛い程度で済むかもしれないが、雪子はただの人間である。
「死ね」
 人造人間の殺意が暴力にとって代わる。その刹那、フランの拳はあまりに唐突に止まった。彼女の背後で蠢く、闇その物が具現化したような存在が彼女の動きを金縛りの如く止めていた。
 フランのこめかみを冷や汗が伝う。無限のように感じる時間に、ぽつりぽつりと滴の落ちるような足音が聞こえてくる。それは今まで彼女が感じたことのない感情、心臓を鷲掴みにされる感覚。信じたくないことだが、それはクロスの皮靴のものに似ていた。
「……フラン」
「……っ!」
 容赦なく振りかざされる裏拳。先と同じような光景。飛びかかってきたクロスを虫けらのように叩き落とした、あの時と同じ。同じはずだった。だがしかし、確実に側頭部を潰したはずの手の甲は空を切り、代わりにクロスの右手がフランの首根を握っていた。
「はなせよ、くるしいだろ」
 無言で見降ろすクロス。着実にフランの頸動脈は締まり、片手で持ちあげられた少女は苦しそうに足をばたつかせる。それでもなお、クロスの右手の力は緩まない。喉を絞められ声を上げることもできなくなった少女の耳元にゆらりとクロスの顔が寄せられ、そっと囁いた。
「ここは教室で、僕は教師だ。ここが国だとすれば、僕は王だ。王に逆らうものは殺す。殴り、蹴り、犯した後に、散々晒し者にしてから殺す。お前は僕の生徒か、それとも反逆者か?」
「ひっ」
「答えろ。三秒以内に。お前は僕の生徒か?」
 三。無慈悲なカウントダウンが始まる。雪子にそのやり取りは聞こえていない。否、聞こえないようにクロスが雪子の聴覚を操作している。
 二。フランは答えようとするが、喉が締まり声を出せない。両手でクロスの指を外そうともがくが、万力のような力で抑えつけているそれはびくともしなかった。
 一。クロスが笑った。フランは血の行かなくなった脳で、最後の抵抗を試みる。彼女が動かしたのは首。一度だけ、言葉はなくともわかる肯定を意味する動作を取った。その瞬間、クロスの手が緩み、ぼとりとフランの身体が床に落ちる。
 酸欠と恐怖。二重の意味で極限状態に置かれた彼女に、クロスは無表情で顔を近づけ、笑いながら言った。
「冗談だよ。大人をあんまりからかうもんじゃない」
「あ、あ、あ……」
 恐怖で声も出せなかった彼女が、最初にした行動は教室の出口に大きな水たまりを作ることだった。

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