闇夜にこだまする赤ん坊の泣き声。それは重大な罪を犯したときに聞こえてくるサイレンに似ていた。しかも逃げ出そうにも、周囲は高い壁に囲まれた袋小
路。警察代わりの守衛がすぐに駆けつけて来るのは目に見えている。見つかれば、即死刑。弁護士を呼ぶどころか裁判も開かれることなく、彼らは殲滅される。
「なんでこんなとこに人間のガキがいるんだよ!?」
聞きたいのはこっちだ。パニックで今にも暴れだしそうなあまのじゃくの口に手を押し当てるクロス。クロスは吸血鬼特有の驚異的な聴力である動きを捉えて
いた。重い足音に混じる、金属とプラスチックのこすれる音。騒ぎは既に守衛の耳に届いている。向かってくるのはまず間違いなく殲滅兵。
至近距離で泣き続ける赤ん坊。一刻の猶予も無い。どうにかして、この赤ん坊を隠し通さなければならない。しかし、クロスを含む人外三人には子育ての経験
がなく、どうすれば赤ん坊を泣き止ませることが出来るのか、見当も付かなかった。
「クロス、銃持った兵隊が来るよ!」
「わかってる」
クロスはサキュバスに思考の邪魔をするなと視線の動きだけで伝える。それでなくとも、だんだん大きくなる足音とこんな小さな身体から出ているとは思えな
い力強い泣き声で焦りが募っているというのに。
「守衛だ。開けろ」
無慈悲な宣告が半壊したドア越しに聞こえてくる。ほんの少しでも抵抗すれば、反逆とみなされてジ・エンド。気付かなかった、反応が遅れたで済むのは良く
て10秒程度だろう。赤ん坊は依然泣き続けている。脂汗がこめかみを伝い、クロスは一世一代の賭けに出ることを決意した。
「サキュバス。泣け。赤ん坊のように」
「え……? え!?」
「死にたくなかったら、泣け。初恋の彼に生理的に無理って言われた時みたいに」
わけも分からず戸惑うサキュバスだったが、クロスの有無を言わせぬ口調に飲まれ、適当な理由で捨てられた自分を想像して泣き出した。彼女に彼氏がいたと
いう事実などないから、むしろこの年になって彼氏の一人もいない自分に悲観して泣き出したのかもしれない。
クロスはサキュバスが泣き出したのを見るや否や、サキュバスの声と重なり不協和音を放ち続ける赤ん坊の両目を真っ直ぐに覗き込む。反応はない。クロスの
目には暗闇の中でも赤ん坊の姿がはっきり見えていたが、赤ん坊の目に彼は映っていないからだ。
「ジャス、鬼火出して!」
切羽詰った声。ドンドンと叩かれるドア。ノックが銃声に変わるまでにあと何秒持つ?
赤ん坊も含めここにいる全員が骸になるか、鬼火が間に合うかの瀬戸際。あまのじゃくの指先に青白い焔が小さく灯る。闇を照らす幻想的な青。その光が赤ん坊
の顔を照らし、クロスと人間の視線が一直線に結びついた。
「僕は君の、お父さんだ」
極度の緊張が生んだ、驚異的な集中力。真っ直ぐに結ばれた視線は魔力を帯び、クロスの意思が直接子供の脳に潜り込む。『暗示』。吸血鬼の力のひとつで、
視線を合わせた人間の脳に作用して、身体の動きを掌握する高等技術。今までもクロスは何度もこの手法を試してきたが、成功したのは今のが初めてだった。
破砕音と共にドアから小型の斧が覗く。鍵はかかっていなかったが、痺れを切らした守衛が実力行使に出たようだ。容易く砕かれ、ドアの意味を成さなくなっ
たそれが守衛に蹴破られる。
「お前ら、何をやっている」
機械のようなくぐもった声で守衛が言う。全身を鎧のような装甲で覆い、左手にはアックス。右手には短機関銃が握られていた。顔面には強化結界入りのマス
クとゴーグルが装着されているので、赤ん坊にやったように暗示は効かない。
カゴを背に隠し、クロスは何食わぬ顔で言う。
「夜間お騒がせして、大変申し訳ない。えっと、ただの痴話喧嘩です。僕がサキュバスに『この女童貞』って言ったら泣き出しちゃいまして。ついでにそれを聞
きつけたあまのじゃく君に僕が半殺しにされてたとこです」
クロスの暴言に反応して更にサキュバスの声が大きくなる。知る者にとっては実に分かりやすい演技だったが、人間がその真偽を見極めるのは難しいだろう。
守衛はゴーグルの奥で眉根を寄せ、続けて質問する。
「赤子の声のようなものが聞こえたが」
「赤子って、なんのですか? ワーウルフの?」
とぼけるクロスだったが、守衛の眼光は鋭い。射抜くような視線が自身の体を貫通して、カゴの中身に届いたらと思うと、気が気ではなかった。
「人間のだ」
「人間がここにいるわけないじゃないですか。あ、帝国の方々を除いてですけれど」
じっと押し黙る守衛。その眼は一度も瞬きせずに、クロスの目を見ていた。少しでも動揺したら、殺される。無限に引き伸ばされた間をクロスは引きつった愛
想笑いを崩さないようにだけ集中していた。守衛の視線が動き、無言できびすを返す。
「……クロス・ブラッドハウンド。あまり俺たちの手を煩わせるな。次は許可の取り消しじゃ済まさんぞ」
「お、仰せのままに」
守衛はその一言と無残に壊され、原形を留めていないドアを残し去っていった。数十年ぶりに生き血を啜った後のように、大きく息を吐き出し天井を見上げる
クロス。分の悪い賭けではあったが、この窮地を凌ぎきった。勝てる見込みはほぼなかったが、「禁域に人間は存在しない」という常識が守衛の異常なまでの猜
疑心を狂わせたのだろう。
「助かったー。さっきゅん、ジャス、もういいよ」
「もういいよじゃねーよ!」
緊張の糸が切れ、表情まで緩んでしまったクロスに二人の怒声が重なる。事態が緊急を要したためにやむなくクロスの言葉に従った二人だったが、こともあろ
うにあの昼行灯に命令されたことは侮辱でしかなかった。特にサキュバスは命令されただけでなく、方便とはいえ暴言まで吐かれたのだから、その怒りは本物で
ある。
「変な子供はいるし、怖い守衛は来るし、クロスごときにバカにされるし、わけわかんないわ。私、もう帰る!」
文字通り飛び帰るサキュバス。あまのじゃくも何か言いたげだったが、自分のせいで赤ん坊が泣き出したことに少しは責任を感じていたらしく、黙って出て
行った。
ようやく静かになった部屋で、クロスは思索の海を泳ぐ。実は守衛の足音が聞こえた時点で良案は浮かんでいた。守衛が来るまでのわずかな時間にでも実行で
きる、赤ん坊を静かにする方法。殺してしまえばよかったのだ。まだ座ってもいない首の骨をへし折ることは夜の女をナンパするよりも簡単だ。暗示という能力
を使おうと思い至ったのは、ドアがノックされた直後のことである。
クロスは振り返り、赤ん坊の眠るカゴへと目をやる。さっきまで泣き喚いていたというのに、今は安らかに寝息を立てていた。クロスの暗示が脳にかけた負荷
のせいだけでは、こうはならない。赤ん坊が泣き出した原因は不安と恐怖。それをクロスが父親であると錯覚させることで、消し去ったのだ。
「殺せるわけ、ないよ」
人を襲い、血液を吸い取る種族でありながら、殺すことを躊躇した。それはこの世界におけるルールなんかのせいではないと、クロスは本能的に思う。口ベタ
な自分があの恐ろしい人間と対等に立ち回ることが出来たのは、この小さな子供のおかげなんだ。
自分よりもはるかに小さな手。それは眠った後もクロスのマントを強く、掴み続けていた。
彼らには戸籍が無い。星の数ほど存在する人間とは違い、個体数が著しく少ないため、戸籍といった情報を保管する必要がないからだ。しかし、必要ないとは
いえ、人間たちが彼らの存在を全て把握、管理するために、新たに禁域の住人となるものは届出が必要になっている。
しかし、この届出ひとつに頭を抱えている男がいた。言うまでもないが、吸血鬼のクロスだ。彼は眠った赤ん坊の入ったカゴを片手に、大きな納屋へと向か
う。住んでいるのは一人の老人。禁域の中で一番の年長者がそこに住んでいるのだ。
「すいませーん。ゴンさん、いますかー?」
「おらんよー」
納屋の隅から聞こえてくる返事。クロスは不在の意を無視して、声の聞こえてきた方へと歩き出す。彼の場合はいつもそうなのだ。彼は千を超える高齢であり
ながら、並の人間なんかよりも余程おちゃらけていて、ユニークな発想をしている。
「実は相談があって来たんですけど。これ、見てください」
「クロス君、飯はまだかの」
まだですと適当に流し、カゴに被せてあった布を退けるクロス。それがあらわになった瞬間、真っ白な髪と髭に埋もれた目玉が大きく見開かれた。
「旨そうな人間の子供じゃ!」
「いや、食べないでくださいよ。守衛の人にチクりますよ」
クロスに冷静に突っ込まれ、つまらなそうな目をする老人。
「無論、食べる気などなかったがもう少し慌ててくれても良かろう。それで、わしに何のようじゃ?」
「この子の戸籍を捏造して欲しいんです」