薄暗い路地で肩を落として歩く、黒服の男。若々しい黒髪に漆黒のマントを纏う彼は、闇に溶けながらよたよたと帰路に就いていた。男でありながらも素直に
美しいと表現できてしまうほどの整った顔立ちも、今は自身から醸し出す負のオーラに霞んでしまっている。
今日もダメだった。収穫ゼロ。あまりの才能のなさ……というよりも己の不甲斐なさに軽く笑みまでこぼれてくる。言うまでもなく、それは苦笑であるが。
「今日は行けると思ったんだけど……」
誰にともなく呟き、重苦しい息を足元に吐きつける。男の背には人気のない路地裏に幾つかある安宿が見えた。宿泊5000、休憩2000と書かれた大きな
看板から、そこがどういった目的で使用されているかはおのずとわかるだろう。
時は少し遡る。時間で言うとわずか三十分でしかなかったが、その三十分は男の心身に深い傷を残すに十分過ぎる時間だった。
男の目的は単純だ。女と寝る。ただそれだけのことだった。彼はその美貌と言うにふさわしい外見で、一人で歩いている女を見つけては口説き、断られては次
の女に声をかけていく。
普通の男から見れば女に苦労しない、いけすかない野郎に見えるかもしれないが、彼にとっては、ドラマや映画で主演を任されてもおかしくない見た目をもっ
てしても、目的を遂げることは困難極まりないものだった。
理由は何のことはない。彼は極めて口下手だった。喋らなければいい男と呼ばれたことも一度や二度ではない。男の一言目でキラキラした表情を見せる女たち
も、次の瞬間には色褪せた軽蔑の視線を向ける。いっそ、最初から相手にされない方が、落差がないだけ彼は幸せだったかもしれない。
しかし、何度も胸を抉られるような目に遭いながらも、必死に声をかけ続けた結果、たった一人だけ彼の言葉に耳を傾けてくれた人がいた。派手な化粧に異常
に盛り上がったブルネットを蓄えた女。遠目に見ても頬は赤く、近付けば顔をしかめたくなるほどアルコールの臭いがする。
「いい男じゃない」
彼女はそう言うと、男が二言目を喋る前に自分から誘ってきた。多分、男が何か言ったところで聞いてはいないだろう。偶然出会った男女の目的が、これまた
偶然一致した。それだけのことである。なんとも情けない結果ではあるが、それでも彼は前向きにやってきた報いが来たと内心、こぶしを握りしめたい思いだった。
そして、その後すぐに二人は安宿に足を運んだ。地獄の三十分の始まりである。詳しいことは説明するまでもない。部屋に入り、互いに熱い抱擁を交わした
後、シャワーも浴びずにベッドに転がり込んだ。男の口を塞ぐように女が酒臭い口を合わせてくる。男はむせそうになるのを必死でこらえ、口を舌を必死に絡める。
ようやく解放された直後、女は男が何も言わず服を脱ぎ始める。元々背中や胸元が覗けるような軽装だった女はあっという間に下着姿になり、それに合わせよう
やくコートに手をかけた男の股間に手を伸ばす。うっすらと上気した指は這うように男のズボンをなぞり、慣れた手つきでそれを脱がせる。
「ふふ……怖がらなくていいの」
完全に立場が逆転しているが、男はむしろ今日という日に訪れた幸運を心から噛みしめていた。何しろ、久々の”食事”だ。一体、何年振りだろう。いや何十
年振り? 正確には分からないが、何にしても長いこと彼が”食”していなかったのは間違いない。
「うっ」
下着ごとまさぐられ、男が初めての女のような声で呻く。それが女のサドスティックな部分を刺激したらしく、愛撫はさらに激しく、加えて女自身の股を彼の
太ももに乗せる。薄布越しに伝わる体温と、艶やかな腰使いが彼の身体に伝わってくる。
そこまで来て男はやっと女の両胸に指を伸ばした。小さい布に覆われ、窮屈そうに揺れる二つの山。上気した肌に骨のように白い指が重なり、下着を付けたま
ま中の物に指を這わせる。女の身体が一瞬だけ痙攣し、それを境に腰の動きが早くなった。
二人は言葉の代わりに熱い吐息を何度も漏らし、互いの身体の感触を確かめあう。焦らし、身体の芯からじわじわと染めていく。どちらが先に理性を飛ばすか
競い合うようにして、肌と肌を重ね合った。
「もう、ダメ……」
高まった女の声は彼の耳朶に優しい余韻を残し、理性を優しく崩していく。彼の太ももに当たる感触もこすれ合うそれから、別の音に変わっていた。男が女の
腰に手をかけ、女も示し合わせたように男のトランクスに指をかける。そこには得物を前にした蛇がいる……はずだった。
「え?」
おかしい。嘘、そんなはずはというような、種々の感想が入り混じった音。声を出したのは女。驚くのも無理はなかった。足の間で硬直し身構えているはずの
蛇は、完全に冬眠していたのだから。
困惑していたのは男の方も同じだった。いや、むしろ自分の息子の調子が一番わかる自分だからこそ、ショックは大きい。男の股間でピクリとも動こうとしな
いそれを見つめ、女はしばし黙りこんでいたが、自分の技量のせいだと勝手に判断し、次なるステップに進む。
「仕方ないわねぇー」
動いたせいで酒がまわったのか、呂律の回らない声で女が一言。口調とは異なり、その手は深い眠りに入った蛇を起こすのに必死だった。手を使い、舌を使
い、口を使い……とにかくあらゆる手段で男の不肖な息子にアプローチした。男は為されるがまま、それを眺め、時折変な声を出したりしているだけだ。
五分、経っただろうか。わずかばかりの時間は経ったが、男の息子は一向に勃たなかった。音を上げたのは女の方だ。もうなにをやっても、彼の息子は起きそ
うにない。そう思った女はヒステリックな声で叫んだ。
「ふざけんな! このインポ野郎!!」
気まずい沈黙。男の祈りもむなしく、それでも彼のモノは目を覚まそうとはしなかった。沈黙は半裸の女が服を引っつかみ、ドアを激しく閉めた音で破られ
る。ただ一人残されたベッドには、放心状態の男が一人。彼のイチモツは相変わらずだらしなく、ベッドの中心で寝息を立てていた。
そして今に至るわけである。結局、彼は宿代を二人分払い、空腹のまま宿を出た。失ったものは多く、得たものはほぼ何もない。骨折り損のくたびれ儲けとは
このことである。彼は散々いじくりまわされた股間をさすりながら、多少ガニ股になっているのにも気づかず、まっすぐ家へと向かっていた。
「はぁ……」
また鶏か。脈絡なく口走り、もう一度大きなため息をつく。男の家はこの闇の向こう五百メートルほど先にある、関所を越えてすぐだ。
辺りには電灯も無く、家々の窓から漏れる光もほとんどない。月明かりだけを頼りに、彼はふらふらしながらも何かにぶつかることなく、進んでいった。普通
は一寸先も見えない闇も、彼にとっては何も問題ない。入り組み、そこら中にごみが散乱している路地でも、彼には庭のようなものだ。
しばらく歩くと『禁域』と書かれた看板が見えて来た。と同時に張り巡らされた立ち入り禁止の文字と、城のように高くそびえ立つ壁が見えてくる。初めて見
れば異様な光景でも、慣れてしまえばそれほどでもない。男はいつもと変わらぬ様子で関所の前に立ち、胸ポケットから鎖付きのプレートを取り出し、憲兵に見 せる。
「第一種吸血鬼、クロス・ブラッドハウンド。ただいま帰還しました」
「入ってよし」
吸血鬼と名乗った男の目の前で交差された銃剣が解かれる。『禁域』それこそが、彼の住む地。いや、彼だけではない。彼と同じ、劣等種の住む、外界と完全
に隔離された世界のことをただ入ってはいけない場所として『禁域』と名付けただけのことだ。
禁域はその名の通り、入ることのできない場所。と同時に、出ることもできない場所である。なのに、クロスが何事も無く外出しているのには何らかの理由が
あるのだろう。
「しまった……配給所行くの忘れてた」
腹をさすり、星ひとつ見えない夜空を見上げる男。彼の家は関所から入ってすぐ右のボロアパートだ。部屋は四つ、二階の一番奥の202号室が彼の住まいで
ある。一応大家の役目もあるのだが、彼は偉そうにしたり、人の前に立つのがあまり得意ではないのでひっそりと一番奥の部屋に住むのが性に合うと思ってい る。
軋む階段を踏みぬかないように注意してのぼり、隣の住人を起こさないようにそろそろ歩く。隣に住むサキュバスは夜に起こすなんてことがあれば容赦なく殴
りこんでくるので、絶対に起こしてはいけない。
吸血鬼らしい音のない歩行でするすると201号室の前を通過する。今日はとことんついていなかったけれど、ここだけ天は我に味方した。そう思った直後、
彼は自分の家の前に見慣れない何かが無造作に置かれているのを目にする。
「……は?」
先ほど、ベッドの上で女が発した言葉と同じ語調でクロスが言う。在ってはならないものが在った。それも何の不幸かクロスの家の前に。
「嘘だろ」
隣の住人が起きることも忘れて素の声で喋るクロス。伸ばした手の先には藁を編んだカゴ。カゴだけならまだ良い。問題はその中身だ。白い毛布にくるまった
それは温かく、すやすやと寝息を立てている。
彼はまずカゴの中身の頭に当たる部分を触った。無い。次は腰から臀部にかけて触る。やはり無い。となると背中……やっぱり無い。
「に、人間の子供ッ!?」
慌てて口を押さえるも遅い。隣の住人が血相を変えて飛び出して来ていた。
「おい、クサレコウモリてめえ! 今何時だと思ったんだ!!」
黒い羽根を似合わない水玉のパジャマから飛び出させ、恐ろしい形相で彼を睨むサキュバス。しかし、クロスもそれどころではなかった。
「さっきゅん、こっ、これ」
「ん、え……? え!?」
人間と大声で叫び出しそうな彼女の口を咄嗟に押さえるクロス。もし、あのアニメ声で叫ばれでもしたら、確実に守衛の耳に届くだろう。だが、彼自身は何故
そんなことをしたんだろうと考えていた。
純粋無垢な人間の子供。その安らかな寝顔だけが彼の瞳に映っていた。